幸せの追求とハードル

年に一度くらいのペースでごはんを共にする友人がいる。
幼稚園と中学校の同級生なので、知り合い歴は生まれてからのほとんどと言っていいだろう。
彼女はなぜか私のことを好いてくれていて、誘えばかならず来てくれるし、突然の連絡もよろこんでくれる。
ただ、コロナ禍の1年間で連絡を取ろうと思ったとき、不意にある考えが頭をよぎった。

そういえば、私が誘えばかならず来てくれるけど、誘われたことってないな。

本当にばかみたいな話だけど、その考えに胸を刺されるような心持ちがして、1年間連絡を取れなかった。



昔からほとんど、友達にとって一番の友達になれないタイプの人間だった。
仲のいい友達には自分より仲のいい友達が絶対いて、自分と友達の間には越えきれない溝がある。
自分がこれだけ好いているのに相手に好いてもらえないのはさびしいと、同じだけ好いてほしいと傲慢さが顔を出してしまったのだった。



自己肯定感が低い人間へのアドバイスでよくあるのが、「今の環境に幸せを見出す」ことだ。
今の自分がどれだけ恵まれているのか自覚しなさい。幸せのハードルを下げて、今の自分で満足しなさい。
きっとそういう意図なんだけど私は反発心を覚えてしまう。
現状より幸せを求めてはいけないんだろうか。満足していないのにもっともっと追い求めることの、何がダメなんだろうか。
自己肯定感が低いと思っていた自分には納得のできない言葉だった。



今にして思えば、おそらく私の自己肯定感ってそこまで低くない。
どちらかというと他人への興味とか外向性がないって話なんだと思う。
ただ、ある程度開き直れるのに完璧主義で、人と比べて自分の不出来を計測してしまう習性があるというだけだった。ちょっと偏屈なだけとも言う。
他人への興味がないから深入りしすぎなくて、結果相手の一番の友達にはなれない。自分で溝を掘っていただけだった。
自己肯定感も、中途半端に恵まれている自分の境遇よりも、追い求めようとする性質を認めてあげるべきなのだと思う。
幸せのハードルを意図的に下げて対象を増やすんじゃなくて、自分の目線から数えに行くような。
少し解きほぐしてみたらわかることだった。



こんな面倒くさい性格なんて二日三日で治るようなものでもないので、少しずつ寛解を目指すしかない。
でも、また友人に2年ぶりに連絡をしたらよろこんでくれたので、たぶんそれでいいんだと思う。