10年、1年、こんなはずじゃなかった

2011年の3月11日、私は沖縄にいた。
修学旅行の最終日。国際通りで買い物を終えた友達と私は、那覇空港に着いた。
飛行機にちゃんと乗ったのはこの修学旅行が初めてで、だから空港のふだんの様子なんて知らない。だけど、なんだかざわざわしているような気がした。
ロビーのイス近くにあるテレビに人だかりがあったので、そっと近寄った。
その瞬間。目に入ったのは、一面の火。
ニュースだ。どこだろう。
テレビを見つめたままでいると、やっとわかってきた。日本で大きな地震が起きたことが。



最初はあまりにも現実味がなかった。
1時間前の私は首里城にいたし、紅芋タルトはどこで買ったら安いかなんて考えてた。国際通りでゴキゲンにお買い物して、あとは帰って家族にお土産話しをして、久々に家のごはんを食べてお風呂であったまって、布団で泥のように眠る。
そんなありきたりから外れていった。
沖縄は少したりとも揺れなかったのに。



飛行機は当然飛ばなかった。
わけもわからず、空港でクラスごとに座ってぼんやり待っていた。
大富豪とか七並べとか、飽きたのにやることもないから何度も何度も繰り返した。
電話はびっくりするほどつながらなかった。やっとお母さんに電話がかかって、家族は無事だとか、こっちは空港で待機してるだとか、そんな話をした。
次の日の振替便が確約されて、ようやく空港を出た。
不安と閉塞感に満たされた空港を出て、やっとひと心地ついた気分だった。



バスの中は異様な雰囲気だった。おおよそ修学旅行にはありえない。
バスの外はまっくらだった。夜遅く、日付が変わる手前だったと思う。
だれも騒がず、今が夢の中なのか現実なのか、わからないようだった。
ホテルについてよくわからないままお風呂に入って寝た。
予定にない3泊目がいちばん豪華だったのがちょっと笑えた。



翌朝のフレンチトーストがあまりにもおいしくて、家族に写メをつけてメールしたのは覚えてる。
4日目、飛行機に乗って家についた。
部屋の中の、カラーボックスの上に置いていた使ってないテレビが、床の上に落ちていた。
そこでやっと、本当に地震が起きたらしいとわかった。



幸いにして私の家は無事だった。
水槽の水がばっちゃんばっちゃん溢れたとか、父が仕事場から6時間かけて歩いて帰ったとか、そんなささいな大変なことはあったけれど、その程度だ。
10年かけて、今ではすっかり思い出話として、あの時フレンチトーストの写メ送ったな、なんてしゃべれるくらいだ。
10年後の3月11日を迎えて、ふとそれが健全なのかどうかを考えた。


この10年、いろんな人がきっとこんなはずじゃなかったって、ずっと思っただろう。
この1年、私ですらコロナ禍にあって、こんなはずじゃなかったって思ったくらいだ。
これから1年、3年、5年、10年。
先など何も見えない中、なんとなく生きていくのは、暗い海の中でおぼれないようにもがくみたいだ。
でも、今つらい人もそうじゃない人も、「こんなはずじゃなかったけど、まあこれはこれで」と最後は笑って過ごせるような、そんな未来であってほしいと祈っている。