私を8年ぶりの飛行機に乗せた男

付き合い始めた当時、すでに相手の転勤が決まっていた。
赴任先は今いるところから遠く(それまでは1時間くらいのところに住んでいた)、会いに行くには飛行機が最適だったので、重い腰を上げて飛行機に乗った。
ちなみに私の搭乗歴はたったの2回。しかも高校の修学旅行と大学の短期研修で、ぼっち搭乗は初めてだった。
あまりに不安なので搭乗のお作法を聞くと、相手は「大丈夫だって」とやんわりなだめてきた。お前は初ぼっち搭乗の不安がわからんのか、と思ったけど言うのはやめた。



当日は早朝の便だったので空港の数駅手前に前泊し、バスで空港に向かった。
空港に着くとまず入口はどこが正解なのか、自分が何階に向かえばいいのか、という初歩で詰みかけたけどとりあえず中に入った。
だだっ広い空港の中、ひとまず旅行中のお菓子二人分を買ったはいいものの搭乗券をどこで出すのかわからなかった。調べると窓口ではなく機械で出せるらしい。確実に8年前と変わっている。なんとか搭乗券はゲットできた。



ただ、ついに荷物検査で詰んだ。たくさんあって、どこが自分の乗る便の場所なのかまったくわからなかった。
サービスカウンター的なところで「あの…久しぶりに乗るんでわからなくて…」とおろおろしながら聞くと、スタッフさんは教えてくれた。めちゃくちゃ「こいつこんなことも聞くの?」みたいな不信感あったけど。朝っぱらからごめんなさいね、初心者なもので…。



荷物検査で水気のあるもの一通りを出して、手荷物と上着と一緒にカゴに入れた。検査自体はスムーズに通ったけどしまう段階でもたもたしてしまった。水気のあるもの、日焼け止めレベルなら出さなくていいようだった。後ろが詰まったのは申し訳なかった。
そんな感じで搭乗して、離着陸のお腹のヒュッてするやつが想像以上でビビりながら、隣の人の音漏れでかすぎてまったく眠れないながら、ようやく目的地に着いた。
相手に会ったらそれまでの不安は全部吹き飛んだ。
もし付き合ってなかったらきっと飛行機に乗ることもなかったと思う。ありがとう。
ちなみにお菓子は二人とも全然食べ切れなかった。

悲しい目標

部屋を片付けると予期せぬものが出てくる。
たとえば15年は遊んでないパズル(しかも8個も)、私も知らないへそくり、小学生のころ使った鍵盤ハーモニカ。
そんな中でもこのあいだの片付けで見つけたのは、目標だった。


わたしは初志貫徹のむずかしい人間で、だいたい目標を立てては倒れて終わっているのだけど、そのくせ心機一転目標をリセットする習性がある。
その目標はちょうど大学4年生の4月ごろ、もう7年近く前の自分が立てたものだった。


その目標は、30歳までにやりたいことリストの形式を取っていた。
本を何冊読むだとか、海外何ヵ国に旅行するだとか、友達誰々に会うだとか、たわいのないものだ。
下の方に目を移すと貯金の目標が書いてあった。
○円貯める。まあここまでは普通だ。
その隣に、奨学金○円+葬儀代○円、と書いてなければ。


つまりその時のわたしは、とっても死にたかったのだ。


大学4年生の春。記憶の中では、初めてできた彼氏とたったの3ヶ月で無残な別れを迎え、就活はやる気がなくボロボロだった。まあ悲惨だ。
寝るのも遅くなり、たしか夜中の2時3時にちいさな灯りだけがある暗い部屋で、悲しい決意とともに書いた目標だった。
過去の自分の心情など手に取るようにわかる。
わたしには奨学金もあるし、葬儀にはお金がかかる。迷惑かけないように貯めなければ。
すぐ死ぬと困るし、生きてる間にいわゆる会い納めしたい人たちもいる。
本だって読めるなら読んだ方がいいだろう。
きっとそんな気持ちで書いていたはずだ。にしたってずいぶん早いエンディングノートだ。


そんな悲しい目標を立てたあとからアラサーに足がずぶずぶの今の私に至るまで、いろんなことがあった。
就活は奇跡の逆転ホームランで第一志望に受かり、入社後は病気したりメンタルやられて会社行けなくなったり、社内恋愛の泥沼のまんなかにいたり巻き込まれてトイレで泣かれたり、後輩の面倒であっぷあっぷしたり。
側から見ればどうかわからないけど、わたしからすれば濃すぎるくらいいろんなことがあった期間だった。もうお腹いっぱいだ。
そんな人生で、つらいこともそれなりにたくさんあって、だけど今も生きている。


この数年の病気や戦争で、人が1人亡くなることの、客観的な重さというものがよく身に染みてきた。
あのやりたいことリストは、ここまでがんばったなら解放されてもいいよね?と自分にかすかな希望を与えるものだった。
だけどそんな開放とか希望よりも、つらくても生きる方向で進んでこれたことが、本当によかったと思う。



もしも今度あのやりたいことリストを新たに作るなら、絶対に無理難題をふっかけてやろうと思う。
リストを達成しなきゃ死ねないのなら、達成できない目標にしたらいいのだ。

10年、1年、こんなはずじゃなかった

2011年の3月11日、私は沖縄にいた。
修学旅行の最終日。国際通りで買い物を終えた友達と私は、那覇空港に着いた。
飛行機にちゃんと乗ったのはこの修学旅行が初めてで、だから空港のふだんの様子なんて知らない。だけど、なんだかざわざわしているような気がした。
ロビーのイス近くにあるテレビに人だかりがあったので、そっと近寄った。
その瞬間。目に入ったのは、一面の火。
ニュースだ。どこだろう。
テレビを見つめたままでいると、やっとわかってきた。日本で大きな地震が起きたことが。



最初はあまりにも現実味がなかった。
1時間前の私は首里城にいたし、紅芋タルトはどこで買ったら安いかなんて考えてた。国際通りでゴキゲンにお買い物して、あとは帰って家族にお土産話しをして、久々に家のごはんを食べてお風呂であったまって、布団で泥のように眠る。
そんなありきたりから外れていった。
沖縄は少したりとも揺れなかったのに。



飛行機は当然飛ばなかった。
わけもわからず、空港でクラスごとに座ってぼんやり待っていた。
大富豪とか七並べとか、飽きたのにやることもないから何度も何度も繰り返した。
電話はびっくりするほどつながらなかった。やっとお母さんに電話がかかって、家族は無事だとか、こっちは空港で待機してるだとか、そんな話をした。
次の日の振替便が確約されて、ようやく空港を出た。
不安と閉塞感に満たされた空港を出て、やっとひと心地ついた気分だった。



バスの中は異様な雰囲気だった。おおよそ修学旅行にはありえない。
バスの外はまっくらだった。夜遅く、日付が変わる手前だったと思う。
だれも騒がず、今が夢の中なのか現実なのか、わからないようだった。
ホテルについてよくわからないままお風呂に入って寝た。
予定にない3泊目がいちばん豪華だったのがちょっと笑えた。



翌朝のフレンチトーストがあまりにもおいしくて、家族に写メをつけてメールしたのは覚えてる。
4日目、飛行機に乗って家についた。
部屋の中の、カラーボックスの上に置いていた使ってないテレビが、床の上に落ちていた。
そこでやっと、本当に地震が起きたらしいとわかった。



幸いにして私の家は無事だった。
水槽の水がばっちゃんばっちゃん溢れたとか、父が仕事場から6時間かけて歩いて帰ったとか、そんなささいな大変なことはあったけれど、その程度だ。
10年かけて、今ではすっかり思い出話として、あの時フレンチトーストの写メ送ったな、なんてしゃべれるくらいだ。
10年後の3月11日を迎えて、ふとそれが健全なのかどうかを考えた。


この10年、いろんな人がきっとこんなはずじゃなかったって、ずっと思っただろう。
この1年、私ですらコロナ禍にあって、こんなはずじゃなかったって思ったくらいだ。
これから1年、3年、5年、10年。
先など何も見えない中、なんとなく生きていくのは、暗い海の中でおぼれないようにもがくみたいだ。
でも、今つらい人もそうじゃない人も、「こんなはずじゃなかったけど、まあこれはこれで」と最後は笑って過ごせるような、そんな未来であってほしいと祈っている。

ガラパゴスと素数

ガラパゴス、というと、あなたは何を思い浮かべるだろう。
ガラパゴス諸島なのか、ガラパゴスケータイなのか、はたまたガラパゴスという形容詞なのか。

コロナで人と会いづらくなってから約1年。
思うのは、人とのコミュニケーションがさらに下手くそになったということだ。
「さらに」でわかるように、もともとあまり得意ではないところを、この1年で加速させてしまっている。
原因はわかる。関わる相手が減ったから、その相手との話題に特化してしまったからだ。
仕事の話、姪っ子の話、という風に、私の日常にあらわれる話題はかなり限られてしまったし、相手が減った分密度を増して、深まってしまっている。

誰かがテレビで言っていたけど、人は何らかの数字を持っていて、相手との最大公約数でしか話ができない。
たとえば私が30、友達が45であれば、共通の話題として15の話ができる。
だけどそこに6の人が加われば、一気に3の話しかできなくなる。
この数字の話でいくと、私は今きっと6の人になっているし、場合によっては、241みたいなだれとも分かち合えない素数になっているかもしれない。
ガラパゴス化と言われるような、特化型になってしまっているだろう。
人と話すとき、自分の手札の少なさにこっそり愕然とするし、困った顔で数枚の手札をじっと見つめているのだと思う。
手札を増やすことも考えたが、自分の日常に出てこないことを取り入れるのは、思ったよりも難しい。

ガラパゴス化。その島に住む動物は、よそで通用しなくてもきっと楽しい暮らしをしているのだと思っている。
ガラパゴスケータイだって日本人にはとても刺さり、根強い人気を誇っていた。
そしてそのネーミングが、ガラパゴス諸島を有名にしたし、島が意図していないある種毒のような意味を持っているにも関わらず、広く受け入れられている。
ガラパゴス化した私が、よそに通用しないまま小さくせまく生きるのか、はたまた意図せぬ形で広く受け入れられていくのかは、神のみぞ知る。

幸せの追求とハードル

年に一度くらいのペースでごはんを共にする友人がいる。
幼稚園と中学校の同級生なので、知り合い歴は生まれてからのほとんどと言っていいだろう。
彼女はなぜか私のことを好いてくれていて、誘えばかならず来てくれるし、突然の連絡もよろこんでくれる。
ただ、コロナ禍の1年間で連絡を取ろうと思ったとき、不意にある考えが頭をよぎった。

そういえば、私が誘えばかならず来てくれるけど、誘われたことってないな。

本当にばかみたいな話だけど、その考えに胸を刺されるような心持ちがして、1年間連絡を取れなかった。



昔からほとんど、友達にとって一番の友達になれないタイプの人間だった。
仲のいい友達には自分より仲のいい友達が絶対いて、自分と友達の間には越えきれない溝がある。
自分がこれだけ好いているのに相手に好いてもらえないのはさびしいと、同じだけ好いてほしいと傲慢さが顔を出してしまったのだった。



自己肯定感が低い人間へのアドバイスでよくあるのが、「今の環境に幸せを見出す」ことだ。
今の自分がどれだけ恵まれているのか自覚しなさい。幸せのハードルを下げて、今の自分で満足しなさい。
きっとそういう意図なんだけど私は反発心を覚えてしまう。
現状より幸せを求めてはいけないんだろうか。満足していないのにもっともっと追い求めることの、何がダメなんだろうか。
自己肯定感が低いと思っていた自分には納得のできない言葉だった。



今にして思えば、おそらく私の自己肯定感ってそこまで低くない。
どちらかというと他人への興味とか外向性がないって話なんだと思う。
ただ、ある程度開き直れるのに完璧主義で、人と比べて自分の不出来を計測してしまう習性があるというだけだった。ちょっと偏屈なだけとも言う。
他人への興味がないから深入りしすぎなくて、結果相手の一番の友達にはなれない。自分で溝を掘っていただけだった。
自己肯定感も、中途半端に恵まれている自分の境遇よりも、追い求めようとする性質を認めてあげるべきなのだと思う。
幸せのハードルを意図的に下げて対象を増やすんじゃなくて、自分の目線から数えに行くような。
少し解きほぐしてみたらわかることだった。



こんな面倒くさい性格なんて二日三日で治るようなものでもないので、少しずつ寛解を目指すしかない。
でも、また友人に2年ぶりに連絡をしたらよろこんでくれたので、たぶんそれでいいんだと思う。

人からもらった仮面で生きる

飲み会得意ですか。
人と話すの、得意ですか。

こんなご時世だから飲み会なんて久しくやってないけど、わたしはどっちも大の苦手です。

こないだ「大人数の飲み会って苦手」とぼやいたところ、母に「昔から言ってたじゃない」と言われた。覚えてなかった。
ダンスサークルにいたから少しは飲み会があったけど、大人数のてんやわんやでうるさくて、たしかにけっこう苦手だった。


なんで飲み会が苦手かって考えたら、いくつか原因があった。
・人見知りの話し下手すぎてしゃべれない
・がやがやうるさい
・一気やコールだののノリがきらい
・酔っぱらいがきらい
・酒がすきじゃない
致命的だ。飲み会に致命的に向いてない。


そんなわたしが飲み会の多い業界に入社してしまったわけです。
1部署目はそこそこ飲み会が少なかったけど、大人数でわいわいすることがあって、そのときはすごい気まずかった。
フロアは一緒だけどふだん仕事で関わらないし、おじさんだし、共通の話題なんて、、、と思っていた。


そのわたしが、ちょっと変わるようなタイミングが奇跡的にあったのだ。
きっかけは、3年目に課の人がガラッと入れ替わったことだ。
最初の課長や先輩2人は全員タイプが違い、仲良くなく、飲み会も形式的な送別会だけだった。つまり、そんなのまったく楽しくない飲み会だ。
それが課長も先輩2人も変わり、後輩も増えた。
その新課長・先輩ズがとにかくおもしろい人たちだったのだ。
みんなおもしろいことが大好きで、飲み会中はずっとケラケラ笑って、一緒にいるわたしもついつい大爆笑。
飲み会っておもしろいんだ!3年目にして大発見。


あともう一つは、部署のお姉様方と仲良くなったこと。
お姉様方とはトイレの鏡前で出会うと、とにかく話が止まらない。
美人なのに変顔もいとわず、動きも話もおもしろくて切れ味がいい。
人見知りのわたしもすぐになじんで、「きゃー○○さん♡」と♡が語尾に見えるくらいのデレデレ加減になってしまった。
特によかったのは、お姉様方全員がサバサバしていたことだった。何ならちょっとおじさんと言ってもいい。
女性にあるいやな感じがまったくせず、だんだんと「こうしゃべったらいいのか」がわかってきたのだ。
(ちなみに、数年後「おじさんになったね、、、」と悲しまれることになる)


高校の担任(前回の文章完成法の方)が授業で言っていたことがある。
「Personという英単語は、語源はPersona(仮面)です。
人は仮面のように何種類もの人格を付け替えている、というのが由来です」
社会人になってこの意味がわかった。
わたしは「飲み会を楽しめる自分」「人としゃべれる自分」という仮面を、まわりの人からもらったのだろう。


いまだに自分で飲み会を開くことはないけれど、声がかかれば前より楽しく参加している。
そのときしゃべっている自分は、仮面なのか素顔なのか。
まあ、楽しければ何でもいいんだけどね。

お金とわたし

高校のころ、担任の先生が「文章完成法」というのをクラスメイト一人ひとりにやってくれた。
単語だけが2,30書いてあり、その後ろに自分で文章を作り完成させるもので、内容や筆跡からその人の性格を診断するような感じ。
やったのは一度きりだったけど、今でもよく覚えているのが、その最後の方にある「金」と一文字だけがあるところだった。

先生は言っていた。
「この金ををお金の金と見るか、金曜の金と見るか、またはちがう金と見るか。人によってぜんぜん違う」
わたしは当時お金の金と書いた気がする。それ以外思いつきもしなかった。
時々ふいに思い出す。今なら自分はどんな金と見るか。


わたしとお金、というタイトルで作文を書くなら、一番最初は小学4,5年生にさかのぼるだろう。
その頃のうちは、裕福と貧困のあいだからちょっと貧困寄りだったと思う。
あまり貧しいと実感したことはなかったけど、ある日それを感じるようになる。


夏に水着をおねだりして買ってもらった。
その時のわたしは、水着を買ってもらった友だちがうらやましかったような、そんなおぼろげな記憶がある。
でも友だちとプールに行く機会がなく、結局一度も着なかったのだ。
母は怒った。ふだん怒らない母がだ。
「着ないなら買わないでよ!」
ごもっとも中のごもっともなんだけど、その時わたしはびっくりした。
あ、うちってそんなにお金ないのかも。そう思った。


次の記憶は大学3年生だ。
大学2年のころ、わたしは地元でバイトをしていた。
あまりいいところでもなければわたしもやる気がなくヘッポコだったのだけれど、まあそんなことはどうでもいい。
時給はよかったので、約1年でやめた頃には40万円くらい貯まっていた。人生初の大金。
それが、なんとなく気になるマンガを買い、なんとなくお金を使う内にどんどん減っていったのだ。
よく覚えている。11月の原宿、サークルで衣装の買い出しに行った時のATM。
びっくりした。すっっっごい残高減ってて。あ、もう3万円くらいだ、って。
その時気づいた。

お金って、気づいたらなくなるんだ。
何かあった時のために貯めておかなきゃ。

ある意味おびえのような、そんな気づきだった。
これがのちのち就活における安定志向を加速させたと思う。


社会人になってからは、いいめの給料・実家暮らし・無趣味・コミュ障の4拍子そろったおかげで、だいぶお金が貯まった。
使い道もないのに貯まるので、無欲がどんどん加速するようだった。
お金に困らない生活、いい。すばらしい。


と、思っていたら。この数週間でひっくり返されそうなのだ。
Twitterでよく見る、5,000兆円ほしい!!!の画像が前よりちょっと身近だ。
(ちなみに、日本での個人の合計金融資産は約1,900兆円らしい。5,000兆円ってでかい。)
このままその道に進んでもいいし、ちがう道に変えてもいい。
どうするかはもう少し考えて、それから4年くらいずっとまた考えるけど、今のところはそんな気持ち。
きのう思い出したんだ。「何かあった時のためにお金を貯めなきゃ」って思ってたこと。
今がその何かなのかなぁ。